伊根町の舟屋集落を過ぎて更に北に向かい、なだらかな勾配を上りきると新井漁港が眼下に広がる。その
新井漁港に下る道の反対方向を進むと海の見える丘陵地に出る。新井の千枚田である。実を言えばそこが
千枚田とは分からず、道を車で行ったり来たりして、地図とも照合した結果どうやらそこが千枚田と分か
ったのである。写真で見た光景では棚田はもっと雄大に海に向かって広がっているとの印象があったが、
実際は百枚田もないのではないか。あとでもうしばらく海岸線に下っていった水田地帯で逢った老婆に聞
いたところ、その老婆が嫁に来た60数年前は千枚田はあったという。嫁入り先でも数十枚の田を持ってい
たらしい。ただし千枚田という言葉は沢山の棚田があったということであり、その嫁入り先の数十枚とい
っても畳二畳程度の極小の水田も入れてとのことという。でも今はその当時の面影はまったくないとい
う。農業に従事する人々の高齢化と集落の過疎化と、そして国の減反政策の結果が現在の新井の千枚田で
ある(数えてみたところでは大小合わせて50枚もないのではないか)。といってもやはり海の間近に迫った
急峻で猫の額のような狭い土地を最大限に開墾し、米の収穫量を上げることに涙ぐましい努力をし続けた
先人達への敬愛の念は薄れるものではない。
農耕土木学という学問があるのは日本だけということをなにやらの本で読んだことがある。周囲を海に囲
まれた狭い日本は農耕面積を広げてゆくには山裾から山頂に向かって広げてゆくしかない。当然そこに行
き着くための道が必要であるし、階段状の棚田であるから、畦の土盛りや石垣も堅固にしなければならな
い。水田も水を張らなければならないから水平でなければならないし、それに一番重要なことは水であ
る。水源を何処に求めるのか、そこからの水路はどうするのか、すべての水田に水を流し込むにはどのよ
うに水路を設けるか等々まさに土木の世界である。先人達はそれらの技術を経験から会得し、そして実践
してきた。海の見える小さな水田でようやく色づき始めた稲穂をみながらついそんなことを考えるのであ
る。