京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

奈良町と元興寺

      

奈良の町は、古代の都、平城京の「外京(げきょう)」とよばれる地域を中心に形成された。都が京都へうつると平城京はまたたくまに荒廃してしまったが、京内にあった東大寺興福寺元興寺などの諸寺院はそのまま奈良に残された。のちに奈良は「南都(なんと)」とよばれるようになる。東大寺興福寺の門前には、寺の仕事に従事するさまざまな人々が集まり、やがて「まち」ができた。このような「まち」を「郷(ごう)」とよび、奈良の町は寺社の門前郷(もんぜんごう)として発達してきた。平安時代末期、平氏が勢力を強めると南都寺院と対立するようになる。治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)が南都を攻め、その兵火により東大寺興福寺とともに奈良の町も大半が大きな被害を受けた。これら東大寺興福寺などの復興は公家・武家の援助によっておこなわれ、門前の各郷も活気を取り戻したのである。奈良町の中にある元興寺蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退した。奈良時代元興寺三論宗法相宗の道場として栄え、東大寺興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。元興寺元興寺極楽坊と呼ばれ、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。正面の門は東門と呼ばれ重要文化財、東門の向こうに見えるのが極楽坊本堂で国宝である。