京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

東海道逢坂山関址その1

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滋賀県大津市大谷町の国道1号線旧東海道)沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇に「逢坂山関

址」という碑が建てられている。逢坂関(おうさかのせき)は、山城国近江国の国境となっていた関所で東海道

東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安

時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関鈴鹿関で

ある。近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。

逢坂関大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶されたという。その後、平安遷都に

ともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び

関が設置された。寛平7年12月3日(895年12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁

じており、この中で逢坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すよう

になり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。

逢坂関は歌枕としても知られ、百人一首でも二つの歌で詠まれている。
   
   これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第十番)
   
   夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第六十二番)

このうち清少納言の歌が歌碑に刻まれて写真のように関址に置かれている。

逢坂関址は国道一号線を京都山科から京津電鉄の線路に沿って進むと次第に道路が登りになり、逢坂山の峠

にある。関址を過ぎると道路は一気に下り坂となって大津市街に続く。関址の前はさすが国道一号線であり交通

量も激しく、大型トラックが激しく行き交う。関址に続く旧東海道の道路に入って車を停め、激しい車の往来を避

けて関址を訪ねたのである。