を抜けてしばらく走り、近江鉄道八日市線をまたぐ陸橋を降りたところに友定町の交差点がある。その交差点を
右折すると八日市に続く国道421号線に入る。その辺りを武佐といい、中山道武佐宿のあったところで今でも通り
にはその面影を残す建物がある。武佐宿は中山道の66番目の宿場。国道421号線は別名八風街道といい、近
行けば愛知川、鳥居本、醒ヶ井、関が原に通じ、中山道を南に戻れば守山、草津、大津に繋がる。武佐宿は現
存しない武佐寺の 門前町 として町を形成しつつ、江戸時代に中山道沿道に家々が集められ宿場町としての体
裁を整えた。武佐宿の天保14年(1843年)当時の宿場の長さ東西8町24間(約916m)、人口537人、家数183軒、
本陣1、脇本陣1、旅籠23軒。本陣が下川家、脇本陣は奥村家が務め、2軒の問屋場が置かれ、街道を行き交う
旅人で大いに賑わった宿場町であった。通りにひときわ目立つ大樹は楠の大木で、伊庭貞剛邸跡。近年屋敷は
解体され楠の巨木だけが残されている。伊庭貞剛はここ蒲生郡西宿(現 近江八幡市 西宿)の出身で明治期の
実業家。巨大財閥・住友の第二代総理事。別子銅山煙害事件の紛争解決にあたり、環境復元に心血を注いだ。
跡地はいまは公園となっている。江戸時代の殷賑さ(最盛期には一日3千人の往来があったという)など想像すら
出来ない静かなかつての宿場町である。