京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

薬師寺西塔その1

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西塔は昭和56年(1981)に復興された。東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われるが、またそれは
 
奈良を表わす色使いでもあると言える。塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に
 
使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に
 
    あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
 
と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われる。「青丹良
 
し」とは奈良の枕ことばを意味する。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違いが
 
多く見られるが、(例えば、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられている)
 
西塔復興の棟梁を務めた宮大工棟梁の西岡常一は、1908(明治41)年生まれ。 薬師寺西塔、法隆寺金堂、法
 
隆寺三重塔、薬師寺金堂など、豊富な檜(ひのき)を使って、数々の古代建築である堂塔の復興を手がけた。 
 
正に「木に生き、木を生かす名匠である。 1995(平成7)年、86歳で死去。
 
西岡常一の家系は、代々法隆寺の大工で、祖父の代から棟梁を務めていた。 当然ながら祖父からは、棟梁に
 
なるべく子供の頃から修業させられ、友達が遊んでいる時でも作業場で仕込まれていた。 その頃の事を西岡
 
常一は、この様に語っている。

「その頃おじいさんが、法隆寺塔頭の修理をしてました。 そこへ連れていかれますのや。 小学校へ上がる
 
前でっせ。 そうしますと境内で友だ達がベースボールしてますのや。 それがうらやましかったですな。 私は
 
塔頭の修理に行きとう無いんです。 おじいさんだって連れていって、何をさせるいうんや、ないんです。 そこで
 
見とれと言うだけですわ。 棟梁教育の一環だったんでしょうな。 仕事場の空気いうもんを早くから教えておくつ
 
もりやったんでしょう。 脇でベースボールやってるのに仕事を見てないかんのですわ。 子供ですもん、遊びた
 
いですわな、友だちと。 こんなんですから、たまに仲間に入れてもらってもベースボールができませんのや。 
 
悲しかったですな」

「木は、生育の方位のままに使え」という口伝えは、含蓄の有る言葉である。 「木」を「人」に置き換えると、良く
 
理解できる。 「山の南側の木は細いが強い。 北側の木は太いが柔らかい。 棟梁の大事な仕事に、この様に
 
生育の場所によって異なる木の性質を見極める力が求められている。 例えば右に捻れている木と、左に捻れ
 
ている木等、それぞれの「捻れ」を、組み合わせると、一本の木も無駄にならない。 ところが今は分業化の為全
 
ては材木屋任せである。 その製材の技術は、進歩し捻れた木でも真っ直ぐにに挽く事ができてしまう。 ところ
 
がその製材の段階で木の癖を隠してしまうので、必ず後に、木の癖がるという問題がでてくる。 これを後で見分
 
けるのは大変に難しいのである。又、柱を支えるそれぞれの礎石の表面が異なる事が、薬師寺法隆寺を1300
 
年もの間に起きた幾度かの地震を免れているという。 寺の柱の全ては、礎石の上に乗っている。 この礎石こ
 
そ、全てのものの基礎、いしずえである。 当然ながら柱は、礎石の重心の上に来る様に据えなければならな
 
い。 柱は、一つ一つ表面の違う自然石に合わせて削る必要があった。 作業の早さだけを考えると、平らにした
 
礎石を使う方が良い筈である。 ところが1300年の昔から宮大工は、敢えてそれをしなかったのである。 それは
 
一つ一つ表面の違う礎石に、木を合わせた方が、丈夫だったからである。 例えば、地震の時、今の建物だと土
 
台はボルトで締められているから、皆同じ方向に揺れる。 その故、上に行くほど揺れは大きくなって、しまいに
 
は崩れてしまう。 一方、自然石の上に立てられた柱は、底の方向がまちまちだから、地震で揺れても力のかか
 
り方が異なってくる。 いくらか柱は、ズレるだろうがすぐに元に戻る。 それぞれの違った「遊び」のある動きが、
 
揺れを吸収するのである。 木の強さも石の振動も各々違う。 それでもこの方法が良いという事は、法隆寺の建
 
物が証明している。 古い木材は、正に宝ものである。 法隆寺薬師寺の塔の中に入ると、その仕組みがよく
 
わかる。 奥の方でがっしりと木が重なり合っていて、それが良く計算されているのである。 癖の強い木をうまく
 
生かして、右に捻れる木と左に捻れる木を組み合わせてある。 創建以来、様々な時代に大規模な修理がなさ
 
れているが、そこに使われた古材を見ていると、各時代の木や建物に関する考え方の違いがわかる。

飛鳥から奈良時代は、木をじっくり乾燥させ、性質を見極めて使っていた。 室町あたりからの建築は、木の性
 
質を十分に活かしていないから、腐りやすくすぐに修理が必要になる。 ひどいのは江戸時代で、慶長の修理に
 
至っては、神仏を崇めるとか、聖徳太子の意思を伝える建物といった事などは、何も考えていない。 釘は細く鉄
 
も質が悪い事から、なるべく安くあげようというのがよく分かる。 昔から古材をよく使っている様に、生きている木
 
は寿命が終わるまで使ってやるのが大工の務めである。 そればかりか、古いから良いという場合も多い。 若
 
い木は、乾燥させても癖が消えないが、古材はそうした癖が抜けているのである。 古材には力に耐える構造材
 
には向かないが、木肌が落ち着き、品の良い色気ともいえる良さがある。 時代が経つにつれ、こういうものの本
 
質や性質を見る力がなくなって、古材の良さを、使いきれなくなっているのである。

宮大工は、普通の大工とどこが違うのか? 今は亡き、西岡常一があげる一番の違いは「心構え」であった。宮
 
大工は、仏さんに入ってもらう伽藍を造るのだから、造ってなんぼというわけにはいかない。

法隆寺の大工の口伝えに「神仏をあがめずして社寺伽藍を口にすべからず」というのがある。 儲けを考えてい
 
たのでは宮大工は務まらない、という意味である。 宮大工は、昔から田畑を持ち仕事が無い時は、自分と家族
 
の食いぶちを作ったのである。普通の大工とは、使う材料も違う。 民家は、実用的な建物。 伽藍は、建物その
 
ものが礼拝の対象となる。 その材料は全て檜で、大きさもとんでもなく大きい。 法隆寺には1300年も前の檜が
 
あるが、今でも立派に建っているし、鉋をかけるといい香りがする。 宮大工には年輪を重ねた木で、1000年は生
 
きる建物を造る心構えが必要なのである。 ましてや「坪なんぼ」などと考えてはいられない。

「晴れの舞台」の意味に「檜舞台」という言葉がある。 その檜の森がなくなりつつある。 伊勢神宮の社の建替を
 
支えてきた「木曽の檜の森」が、早いスピードで生育する笹に陽をさえ切られて檜の苗は腐り、その生育を途絶
 
えさせていると言う。 これからの寺社塔堂復興に大きな陰をもたらしている
 
                                           西岡常一著 木のいのち木のこころ(天)から