2018-04-24 岐阜の町をゆくその2 岐阜の町をゆく #写真 岐阜公園の中に明治維新の元勲で自由民権運動の主導者として知られた板垣退助の銅像が「板垣退助遭難 地」の石碑とともに立っていた。明治14年自由党を結成して総理(党首)となった板垣退助は全国を遊説して 廻り、党勢拡大に努めていたが明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐 阜事件)。その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ 自由ハ死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。 いまはその遭難の地には静かな庭園が広がっていた。この公園の奥が織田信長の居館跡で現在も発掘調査が 進められている。その居館跡の左の方、美しい八重桜の木立の奥に金華山頂上へのロープウェイの乗り場が あった。