京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

7月17日山鉾巡行 長刀鉾その3

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

強力の肩に担がれた稚児が正面を向いて凛とした表情を見せると周りから歓声と拍手が沸き起こった。そして

階段を降り、緋傘が差しかけられると一段と拍手が響く。

祇園祭は7/1の吉符入(きっぷい)り(神事始め)に始まり、1ヶ月間に渡り繰り広げられる。一般には17日の山鉾

巡行が知られ、現在、33基の山と鉾が勢揃いする。中でも、長刀鉾は天を突くようにかざす三条小鍛冶宗近作

の長刀を特徴としている。長刀鉾は毎年巡行の先頭を行く「くじとらず」の鉾で、選ばれた生稚児が禿(かむろ)と

共に搭乗する。かつては船鉾を除いた全ての鉾に稚児が載っていたが、今では生稚児が搭乗するのは長刀鉾

だけである。天明の大火(1788)で壊滅的な被害を受けた函谷鉾が天保10年(1839)に復興する際、稚児人形を

用いたのをきっかけに、他の鉾もそれにならい人形に替えていった。稚児は8~10才ぐらいの男子が選ばれ、祭

りに際しては長刀鉾町と養子縁組をし、6月中の大安の日に結納が贈られる。また、2人の禿が選ばれ、行われ

る行事のすべてに稚児のお供をする。稚児に選ばれた家では、結納の儀に合わせ、八坂神社の祭神・牛頭天

王をお祀りする祭壇が設けられる。7/13稚児が白馬に乗り、供を従え、正五位少将の位と十万石大名の格式を

もらう儀式の為に、八坂神社へ社参することを「社参の儀」という。 南門の大石鳥居で下乗し、正面から昇殿。

宮司や神官が海山の幸を献じ、稚児側から三座分の粽が供えられ、宮司祝詞の後、稚児は外陣に進み神酒

洗米を頂く。この瞬間に稚児は「神の使い」となる。「神の使い」となった稚児は、食事の際にお膳は火打石で打

ち清めてから食べるのがしきたり。稚児家では、父や祖父の男性だけで食事をし、祭壇がある注連縄の張られ

た部屋で過ごす。7/17巡行当日、早朝より稚児は厚化粧天眉をし、金銀丹青鳳凰の冠を戴き、衣装は雲龍の金

襴赤地錦で唐織霜地の二倍織(ふたえおり)表袴(うえのはかま)、鳳凰の丸を浮織した帯状の木綿(ゆう)手繦(だ

すき)を左肩より右腰に掛ける。これは神に仕える装束の一つ。神の使いとしての稚児は公式には地上を歩か

ず、屈強な強力が稚児を肩にし鉾の上まで昇る。午前9時、長刀鉾を先頭に全ての山鉾が順に四条烏丸を出

発。長刀鉾はくじ改めを行わずに通過。ハイライトは稚児による「しめ縄切り」。先頭を行く長刀鉾が四条麩屋町

にさしかかった時に、通りを横切って張られたしめ縄を稚児が刀で切り払い、神域に入る道を開く。

鉾は四条寺町のお旅所前で停止し、疫霊を祭神にお渡しする御霊会(ごりょうえ)本来の儀式を行う。役員が玉

串を捧げ、稚児が舞い、神社を遥拝して儀式は終了。この後、四条河原町の辻廻しから囃子は急テンポに変わ

り、御池通りでは観覧席から盛大な拍手で迎えられる。稚児と禿は御池通新町で鉾から降り、八坂神社へと向

う。八坂神社では位を返す「お位返しの儀」が行われ、稚児と禿は再び普通の少年に戻ることになる。

祇園祭平安時代、「祇園御霊会」といわれ、貞観11年(869)に全国に疫病が流行し、平安京の広大な庭園で

あった神泉苑に当時の国の数にちなんで66本の鉾を建て、祇園牛頭天王を祀り災厄の除去を祈ったことに始ま

るとされている。平安後期には、祇園祭の主体は三基の神輿を中心とする還幸の行列と、御旅所での神事芸能

(神楽・獅子舞、田楽など)であった。鎌倉時代は「馬上十二鉾」が祭りのシンボルとなり、南北朝時代には五十八

基の山鉾が賑わいをみせた。応仁の乱(1467~1477)で大きな打撃を受けたが、明応9年(1500)に36基で復活し

た。現行の祇園祭山鉾32基はこの時点でほぼ完成。長刀鉾は先頭、以下籤取りで巡行順を決めることになった

のもこの頃である。平成27年からは後祭で大船鉾が復活し、現在は前祭後祭合計で山鉾33基となっている。