京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

津和野ー史跡西 周旧宅

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津和野の町は津和野川が中央を流れる小さな盆地の底にある。陽が傾いて周囲の山々に残照の陽があたり明

るく照らしだされると、それにつれて底にある津和野の町は次第に陰ってゆく。森鴎外の旧宅と津和野川を挟ん

で対岸にあるのが西周(にしあまね)の旧宅である。

西周(文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日)明治の思想家。石見(いわみ)国津和野

藩医の子。脱藩して蕃書調所に出仕。1862年津田真道らとオランダに留学,フィセリングに哲学,法学等を学

ぶ。大政奉還前後徳川慶喜の政治顧問となり,明治政府では軍人訓誡,軍人勅諭の起草に関係。

下司馬遼太郎「街道をゆく 長州路」から抜粋
 
 西周は日本における最初の人文科学者であったといっていい。京都で新撰組がチャンバラをしているとき、
 
 かれはオランダでコントの実証哲学に傾倒し、経済学と法律学を専攻し、カントにも強い関心をもち、「わが
 
 国の先人に例をもとめれば、荻生徂徠の考え方がかろうじて西洋にちかいか」などと考えていた。慶応元
 
 年に帰国し、第二次長州征伐で前記(注 慶応二年長州人は幕府に対して抗戦に踏みきり、幕命をうけた
 
 津和野藩は長州と戦わねばならず、先鋒として国境を越えるべきであったが、しかしいちはやく長州藩
 
 内通して敵意のないことを示さざるをえなかった。小藩である津和野藩の悲痛さはそこにあった)のように
 
 津和野藩が幕府と長州に板ばさみになっているとき、かれは徳川慶喜の外交上の秘書役として京都にい
 
 た。明治三年に新政府につかえ、同五年に兵部省にも関係したころ、少年の鴎外が父にともなわれて上
 
 京し、周の家に寄寓し、やがて東京医学校に入校する。周は言葉の創造者でもあった。かれは西洋語を
 
 翻訳してわれわれがいま使っている日本語をつくることに大きな功があった。哲学、心理学、論理学の分
 
 野だけでなく、陸軍の用語も翻訳してどんどん新しい日本語をつくった。このあと鴎外も、陸軍の衛生方面
 
 にかぎっては多少そういう仕事をしたらしい。武はおそれるかのようであった津和野人は、そういう形で明
 
 治の武に参加した。たとえば周は福地桜痴とともに軍人勅諭の起草者になったし、鴎外は軍医総監になっ
 
 た。

司馬さんはこの津和野とこの旅行の最終地である萩にはとりわけ強い関心と愛着を抱いていたようである。