津和野の町は津和野川が中央を流れる小さな盆地の底にある。陽が傾いて周囲の山々に残照の陽があたり明
るく照らしだされると、それにつれて底にある津和野の町は次第に陰ってゆく。森鴎外の旧宅と津和野川を挟ん
で対岸にあるのが西周(にしあまね)の旧宅である。
かれはオランダでコントの実証哲学に傾倒し、経済学と法律学を専攻し、カントにも強い関心をもち、「わが
国の先人に例をもとめれば、荻生徂徠の考え方がかろうじて西洋にちかいか」などと考えていた。慶応元
年に帰国し、第二次長州征伐で前記(注 慶応二年長州人は幕府に対して抗戦に踏みきり、幕命をうけた
津和野藩は長州と戦わねばならず、先鋒として国境を越えるべきであったが、しかしいちはやく長州藩に
内通して敵意のないことを示さざるをえなかった。小藩である津和野藩の悲痛さはそこにあった)のように
津和野藩が幕府と長州に板ばさみになっているとき、かれは徳川慶喜の外交上の秘書役として京都にい
た。明治三年に新政府につかえ、同五年に兵部省にも関係したころ、少年の鴎外が父にともなわれて上
京し、周の家に寄寓し、やがて東京医学校に入校する。周は言葉の創造者でもあった。かれは西洋語を
翻訳してわれわれがいま使っている日本語をつくることに大きな功があった。哲学、心理学、論理学の分
野だけでなく、陸軍の用語も翻訳してどんどん新しい日本語をつくった。このあと鴎外も、陸軍の衛生方面
にかぎっては多少そういう仕事をしたらしい。武はおそれるかのようであった津和野人は、そういう形で明
た。
司馬さんはこの津和野とこの旅行の最終地である萩にはとりわけ強い関心と愛着を抱いていたようである。