洲川が流れる。南部は野洲川の後背部で田が広がっていた。また、甲南部、杣谷を経て伊賀へとぬける間道伊
賀街道が通る。
が、 寛永11年(1634年)京都への上洛の際の宿館として、道中の水口に築かせた。これが水口城である。1682
年(天和2年)に加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立した。明治維新を迎え、水口城は廃城。
水口城廃城後、城の建材は一部を残し大半が公売に付された。石垣は出丸部分と乾御矢倉部分を残しほとん
どが、当時近江鉄道の線路敷設に使用された様である。本丸御殿は一部を残して撤去された。旧本丸は学校敷
地となり、現水口高校の運動場として利用されている。
その後、水堀埋め立てなどの意見も出されたが、昭和47年に将軍家宿館遺跡としての価値が評価され、滋賀県
の史跡に指定されたのを契機に保存整備への関心が高まり、石垣の遺構が残る出丸部分が整備修復され、水
口城資料館が平成3年11月に開館。この資料館は、同城御矢倉の往時の姿を模したもので、木造2層2階建て
の破風を凝らしたものである。