京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

鏡神社 中山道(蒲生郡竜王町鏡)

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国道8号線(中山道)蒲生郡竜王町 まで車を走せると、右側に「竜王かがみの里」という道の駅が見えてく
 
る。この道の駅に車を停めて、8号線にかかる陸橋を渡る。ここら一帯を「鏡の里」と古来から呼ぶ。渡りきって少
 
し京都よりに戻ったところに「源義経元服の地」という石碑が建てられている。鏡の里は、旧義経街道といわれた
 
東山道(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿
 
場であった。平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代があっ
 
た。が、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がいた。その名は遮那王
 
幼名を牛若丸という。機が熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言わ
 
れている。この地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」
 
などが残っている。平治物語に「生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、
 
心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪(もとどり)取り上げて、懐(ふところ)より烏
 
帽子取り出し、ひたと打著(うちき)て打出で給えば、陵助(みささぎのすけ)、早や御元服候ひけるや。御名はい
 
かにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とこそ名告(なの)り
 
侍(はべ)れと答えて」とある。
 
碑の傍らには今も元服のときに、この池の水で前髪を落として元服したと伝えられている「元服池」が今も水を湛
 
ている。時々大型トラックが騒音を残して走り抜けてゆく国道をしばらく近江八幡方面に向かって歩くと「鏡神
 
社」の鳥居が目に飛び込んでくる。このあたりは古道 東山道中山道の宿場、「鏡の宿」として栄えた。神社祭
 
神の天日槍(あめのひぼこ)は金工、製陶技術を教えた新羅王子と伝えられている。この地に製陶業を興し、村
 
の発展に努めたので祖神として祀られ、崇敬・護持されてきたという。本殿は南北朝時代の建築といわれ、重要
 
文化財指定されている。鏡神社の石碑と対をなすようにして立っている松は「烏帽子掛けの松」とよばれ承安4
 
1174)年33日鏡の宿で元服した牛若丸はこの松枝に烏帽子を掛け鏡神社に参拝し源九郎義経と名乗りをあ
 
げ、源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられる。
 
明治61873)年台風により倒れたため、現在は株上2.7mを残して石垣上に仮屋根をして保存している。鏡神社
 
の境内はほどよく広く、森に囲まれていて国道の騒音も気にならない静けさの中でしばし源義経に思いをはせ
 
る。現代の距離感であっても、ここから京都は遠く、ましてや奥州平泉は遥かな地の果てである。さぞや義経
 
心細かったにちがいない。
 
この鏡の里については司馬さんの小説「義経」でこう描かれている。
 
前略
 昼すぎには草津についた。この日は草津から守山、野洲、鏡の宿にいたる間に分宿することになっ
た。吉次とその小者、親衛隊の者は最先端の鏡の宿にとまった。
 奈良朝以前からの古駅である。のちにこの宿は鏡山と改称され、やがて廃駅になるのだが、前面に近江平野がひらけ、背面に富士の縮景のような三上山を据えて、湖東第一の景勝の地とされている。
後略