京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

天守閣跡

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美しい本丸庭園を眺めながらしばらく歩くと天守閣跡に続く石段下に出る。見上げると石段の勾配はかなりきつ
 
く、その先にかつて五層の天守閣がそびえていたことに思いを馳せれば、実に豪壮な眺めだったに違いない。
 
息をやや乱しながら石段を登る。天守閣跡からのながめは素晴らしいとの一語に尽きる。この眺めをさらに五層
 
天守閣の最上階からの視点に高めて想像してみると、京都の町並みが一望できる視界だったに違いない。創
 
建当時天守閣は京都ではもっとも高い建築物であった。東北の方向に目を向けてみると、比叡山の山稜が掌に
 
掴めるほどに近いことに驚かされる。地図上で二条城から御所に直線を引き、その直線をさらに東北の方向に
 
伸ばしてみると、直線は比叡山の頂上に達する。つまり天守閣から東北を臨むと流麗な比叡山の山並みとその
 
手前の御所の甍が視界に飛び込んでくることとなる。
 
かつて二条城と御所の間に視界を阻むものはなにもなかったはずだ。しかも高さとしては天守閣から天皇が起
 
き伏しする御所を見下ろすような視角となる。天守閣から御所を見下ろし、その向こうにある、王城を鎮守する比
 
叡山を仰ぎ見ることなど、恐れ多くてはばかりがあると徳川幕府の役人が思ったかどうかは分からないが、見方
 
によっては天下を手中にしたという実感はあったに相違ない。
 
家康が天下を取ったという象徴として、比叡山と御所の延長線上に二条城を建てたとは思わないが、家康が関ヶ
 
原の戦いで実質天下を取ったその翌年の1601年(慶長6年)には二条城の築城に着手している。だが築城当時は
 
さすがの家康も天守閣を建築することiは遠慮したのかもしれない。だがその25年後の1626年(寛永3年)三代将
 
軍家光は天守閣を建てた。家光の時代は多くの外様大名が取り潰しとなり、徳川幕府の体制が確立した時代で
 
あった。家光が天守閣を建てると考えたとき幕閣の中には朝廷に対し恐れ多いと反対した者もいたかもしれな
 
い。だが幕府の権威を朝廷に知らしめるため建築に踏み切ったのかもしれない。その8年後の1634年(寛永11
 
年)、家光は三十万人ともいう大軍を率いて上洛、二条城に入城し、徳川幕府の威勢を天下に示したのであっ
 
た。家光が上洛してから16年後の1750年(寛延3年)天守閣は雷火により焼失した。盤石の幕藩体制を築いた徳
 
川幕府は、天下に、朝廷に対し権威の象徴としての役割を終えた天守閣をその後再建することなく幕末を迎え
 
た。
 
家光が上洛して以来、幕末まで歴代の将軍が上洛することはなく、229年後の幕末十四代将軍徳川家茂が上洛
 
したときには幕府の屋台骨は大きく傾いていた。さらに天守閣を失った二条城の中で家茂は病死し、将軍後見役
 
徳川慶喜が十五代将軍となった。1867年(慶応3年)二条城二の丸御殿で大政奉還が決定され、二条城が築
 
城されてから266年後、二条城はその役割を終えたのであった。