京都に生まれ育ったわたしはいつも「嵯峨」という言葉を聞くと郷愁を感じ、涙腺がじわっとなり鼻の奥がツーンと
なるような感覚におそわれる。昔の嵯峨、特に奥嵯峨一帯は鄙びたところであった。野々宮神社を過ぎて直ぐ山
えて、子供心に恐怖心を覚えたことを思い出す。その頃は実に草深いではなく、竹薮の深い土地であった。竹薮
滝口寺へゆく道に続く二叉路のあたりまでゆくとますます辺りが草深くなってゆくのであった。いまはそこらあた
道をとると念仏寺の門前町に至る。ぶつかる道の右手の道端には何体かの地蔵や石仏があり奥嵯峨野風情を
漂わせていたが、昔は草に埋れるように立っていたから気のつかない人も多かったに違いない。その地蔵や石
仏の向こうには田圃が広がっていて、はるかに比叡山も望むことができた。いまはその石仏たちも数が増えて花
住宅の屋根に遮られて見ることはできないし、門前町も念仏寺の石段下まで道の両側に土産店が軒を連ねてい
る風景は見慣れた観光地の風景である。だからこれから行われる先灯供養もかつては地元の人々だけで行わ
れてきたものであったが、いまは違う。大勢の人々がやってくるおかげで門前町もそれなりに潤っているに違い
ない。むかし地元の人々が化野一帯に散乱していた石仏や石塔を念仏寺に拾い集めて供養したことが、現代に
なって地元の潤いの一部となっていても無縁仏たちもその程度なら許してくれるに違いない。
かつて無秩序に乱開発され市街化が進んで社会問題となった時期もあったが、いまは条例等の規制があって
今後現状の変更はないだろうが、京都の遺産、いや日本の遺産として嵯峨野の景観を後世に残してゆきたいと
願うのは誰しもであろう。
千灯供養のこの日、門前町は道の両側に灯篭を置いて供養に訪れた人々を暖かく迎えてくれる。地元の小学生
や嵯峨美大の芸術家の卵たちが制作した灯篭である。だが炎天下のこの時間、通りにはまだ人影はない。