京・近江の写真 春夏秋冬

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愛読書20 「花神」

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花神」は昭和44年10月から昭和46年11月まで朝日新聞に連載されました。

幕末に長州から彗星の如く歴史に登場し、幕府と薩長土肥との戦い、いわゆる戊辰戦争で官軍側の総指揮

官として天才的な軍略により官軍を勝利に導き、近代日本の軍政の礎を築いた村田蔵六こと大村益次郎

波乱に満ちた生涯を司馬さんは痛快に描いています。

中国では花咲爺さんのことを花神といいます。大村益次郎は維新に花神の役をして逝ったのでした。

◎わたしと「花神

東京の靖国神社参道の正面に大村益次郎の大きな銅像があります。明治維新で世界に門戸を開いた明治政

府は欧米列強に対抗するため富国強兵の国策をとり、陸海軍の創設、充実を図りました。海軍は薩摩が、

陸軍は長州が中心となって創りました。戊辰戦争が激しくなりつつあった時期に総指揮官として歴史に登

場した大村益次郎戊辰戦争が終わった後も引き続き軍政に関わり近代陸軍の基礎固めをしました。

大村益次郎の写真を見ると、頭が大きくかつ額が異様に広いため聡明な頭脳の持ち主であったことを感じ

させます。また眉毛が太く濃く、まるで火吹き達磨のような表情に尋常でない人物であったと司馬さんは

書いています。また、酒が大好きで豆腐一丁の肴があればそれで満足して酒を楽しんだと司馬さんは好意

的にこの人物を観ています。長州の小さな村で生まれた大村益次郎は早くから医者を目指し、大阪の緒方

洪庵が開いていた洪庵塾に入塾して頭角を現し、医学の学問を通じてオランダのさまざまな文献に接して

次第にヨーロッパの陸軍の軍政に興味を覚えるようになりました。また軍隊の他、科学や地理、造船、機

械、技術等の分野も学ぶうちに物事を合理的、理論的に捉える思考力を身につけましたが、もともと無愛

想な性格でもあったことから人情を理解できず、他人への配慮を欠くような欠点があったため、他人から

誤解を受けたり、憎しみを抱かれたりすることも多く、そのために明治2年京都木屋町で刺客に襲われ命

を落とすこととなります。

司馬さんは著書「竜馬がゆく」の最後で「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に

くだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」と書いていますが、この文章は大村

益次郎についても言えると思います。天は戊辰戦争で官軍側に勝利をもたらすため大村益次郎を地上にく

だし、明治国家の成立でその使命か終わったとき、竜馬と同様刺客に襲われ亡くなります。

竜馬の歴史的業績がその後の明治国家の成立に大きく影響したように、大村益次郎の近代陸軍の創設の夢

山縣有朋に引き継がれ、明治陸軍として欧米列国に脅威を与えるまでに成長することとなります。

徳川家康は亡くなるとき薩摩藩や毛利藩がいずれ徳川家に反旗を翻すことを予見し、久能山に西に向けて

葬るようにとの遺言を残しました。300年後その予見は的中し、徳川幕府は薩摩、長州(毛利)によって

滅ぼされました。明治2年に刺客に襲われた大村益次郎も、大阪工廠で四斤砲(しポンドほう)をたくさ

ん造っておけと遺言しました。西郷隆盛が薩摩軍を率いて明治政府に対して反乱することを予見し、明治

10年予見どおり西南の役は起こりましたが、大阪で製造備蓄されていた多数の四斤砲は直ちに九州に送ら

れて政府軍の勝利に貢献したのでした。