「人間の集団について ベトナムから考える」は昭和48年4月から7月まで「サンケイ新聞」に掲載さ
れました。鋭い史観による独特の発想と、やさしい心に映った内戦下のベトナムの姿、複雑な国際関係と
政治の力学について誰一人として言及しなかった深い洞察力で書かれました。
◎文中で司馬さんは次のようなことを書いています。
戦争は補給が決定する。補給が相手よりはなはだしく劣弱になったときに終了する。旧日本は太平洋戦争
において軍需工場を相手国の空襲によって壊滅せしめられたときに壊滅した。(省略)しかしベトナム戦
争にはその原則がない。その原則が戦争という人間社会の異常連動のキメ手の生理であるのに、その生理
をもっていない以上、ベトナム戦争は戦争(内乱をふくむ)という定義からまったくはずれた別のものな
のである。ハノイにもサイゴンにも密林の中の解放戦線にせよ、自前で兵器をつくる工場をもっていない
のである。かれらが自分で作った兵器で戦っているかぎりはかならずその戦争に終末期がくる。しかしな
がらベトナム人のばかばかしさは、それをもつことなく敵味方とも他国から、それも無料で際限もなく送
られてくる兵器で戦ってきたということなのである。大国はたしかによくない。しかしそれ以上によくな
いのは、こういう環境に自分を追い込んでしまったベトナム人自身であるということを世界中の人類が、
人類の名においてかれらに鞭を打たなければどう仕様もない。ひとびとが、ベトナム人の中でどの側によ
り濃く正義があるとしてその側寄りに声高く支援しているかぎりは、このばかばかしい機械運動は永久運
動のようにして終わることがないのである。
と、司馬さんはドロ沼化したベトナム戦争を公正な目で見ながら戦争の本質をついています。このような
切り口でベトナム戦争を見た人は当時誰もいなかったのです。