「義経」は昭和41年4月から昭和43年4月まで「九郎判官義経」の題名(のち「義経」と改題)でオ
ール読物に連載されました。判官びいきとよく言われるように日本人の心の中にはよわい者や悲劇のヒー
ローに対する哀れみとかいたわりとかに敏感に反応する感情があります。武人としてはその天才性を発揮
することのできた義経は、自分の置かれた立場や鎌倉幕府内での兄頼朝の立場、心情、時の流れ等を敏感
に感じ取る感覚がまったくなかったことが義経の悲劇を生みました。司馬さんはそのような義経の政治感
覚の欠如に苛立つとともに、その苛立ちがますます司馬さんに、義経に対する愛情とかいたわりの念を深
くさせた結果、全編義経への想いが満ち溢れたこの小説は書かれました。
◎わたしと義経
司馬文学とか、司馬史観とかよくいわれますが、歴史学者や歴史研究家では発想し得ない、全く新しい切
り口から歴史を見、現代を見る鋭い司馬さんの鋭い観察力に対して読者がそのような評価をするのだと思
います。例えば「義経」の文中で司馬さんこのようなことを書いています。
(義経が二百騎の手勢を引き連れて、一の谷に平家を攻めていくシーンで)
乗馬武士を純然たる騎兵集団として運用し、騎兵の特徴である長距離による奇襲という戦術思想がなかつ
た。源氏だけでなく平家にもなく、ないどころか、その後もない。ようやく三百七十余年後に織田信長が
出て桶狭間への騎兵機動による奇襲を成功させたが、わずかにその一例をのぞき、その後にもなく、維新
後、近代騎兵の思想が入ってのち知識としてようやくその運用方法を知った。(省略)義経はー明治より
はるかな以前に近代戦術思想の世界史的な先駆をなしたーという意識を、むろんかれ自身はもっていい。
かれはただその性格と才能によってこの運用法をおもいつき、それを無我夢中でいま実施しているにすぎ
ないであろう。