京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

西本願寺門前町の風景


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西本願寺から堀川通りを渡ると大きな総門があり、門をくぐると仏壇・仏具店が軒を連ねる門前町が広がる。

その一角にある赤いレンガ造りの建物がそびえている。西本願寺の伝道院である。伝道院は明治45年(1912)、

近代の日本を代表する建築家であり、東京帝国大学の教授を務めた伊東忠太によって設計された。施工は竹

中組(現在の竹中工務店)。創建当初は信徒向けの生命保険会社として利用されていたが、その後は銀行や事

務所などに転用され、現在は西本願寺関連の研究所として利用されている。寺の門前町にある建物としては異

色の建物である。

最後の写真のお茶屋さんの左辺りは幕末の頃、「天満屋事件」があった場所である(天満屋事件・・・海援隊士・

陸援隊士らが京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して、紀州藩士三浦休太郎を襲い、新選組と戦った事件であ

る。 元紀州藩士であった陸奥宗光は、当時有力な佐幕論者であった紀州藩士三浦休太郎が大垣藩士井田五

蔵らと共謀して京都にて不穏な動きをしていること、また坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)の黒幕

が、いろは丸沈没事件の際に多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを持つ紀州藩であるとの話を聞き、紀

州藩公用人であった三浦休太郎を討つことを海援隊士・陸援隊士らと計画する。危険を感じた紀州藩は、会津

藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。天満屋で三浦休太郎の護衛に新選組斎藤一、大石鍬次郎ら7

名がついた。 慶応3年12月7日(1868年1月1日)、海援隊・陸援隊士ら総勢16名(15名とも)が、三浦休太郎、新

選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲った。出会い頭に十津川郷士の中井庄五郎が「三浦

氏は其許か」というなり斬りつけ、三浦休太郎は頬頤を負傷する。その後、両者は入り乱れるが、燈火を消し、暗

闇での戦闘となる。斎藤は後から斬りかかられ、命を落としそうになったが、梅戸勝之進(平隊士)が斎藤を守っ

た。変を聞きつけた新選組紀州藩が援助に向かったものの、着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げ

ていた。 この事件で、襲撃側は中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷した。一方の新選組は宮川信吉と舟津釜太

郎が死亡、重傷1名、負傷者3名を出し、紀州藩では三浦が頬頤に傷を負い、三宅精一、関甚之助も軽傷を負っ

た)

京都壬生で誕生した新選組が慶応元年に屯所を移した西本願寺の太鼓楼も慶応3年に移転した不動村もこの

近くであった。いまなお幕末の歴史が色濃く残る西本願寺門前町の周辺である。