京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

阿弥陀寺信長忌その1

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一度行きたいと思いながら今まで果たせず、ようやく行くことが出来た場所が、京都市上京区寺町通今出川上る

にある「蓮台山阿弥陀寺」である。織田信長ゆかりのこの寺では毎年6月2日に「信長忌」が行われている。その

「信長忌」にお参りしたのである。

京都を手中に収め、天下統一の夢半ばにして「本能寺の変」に斃れた織田信長。その京都には、織田信長ゆか

りの寺社や史跡が多く遺されているがこの阿弥陀寺にも、織田信長を祀る墓が遺されている。阿弥陀寺は、

1555(天文24)年、織田家に縁のある人物だったといわれる清玉上人によって近江国坂本に創建された。織田

信長の帰依を受けた阿弥陀寺は、織田信長が入洛を果たした際に今出川大宮に移転された。この地は今も上

京区上立売通大宮東入阿弥陀寺町と呼ばれ、当時の名残りが残されている。移転当時の阿弥陀寺は、八町四

方の規模(約900m四方)もの広大な寺域の中に13もの塔頭を持つ大寺院だったと伝えられている。

本能寺の変」が起きた1582(天正10)年6月2日払暁、変事の報に接した清玉上人は、20名ほどの僧侶を引き連

れて本能寺へと駆けつけた。しかし、時すでに遅く、到着した頃には本能寺は炎上、織田信長も紅蓮の炎の中で

自刃して果てていた。一説によると、この時清玉上人は、明智勢が固める表門を避けて裏の生垣より境内に潜

入。織田信長の遺骸をいち早く発見し、堂宇を包む炎で火葬に臥したのち遺骨を阿弥陀寺へと持ち帰って供養

したといわれている。ただ、寺院内は攻め寄せた13,000名あまりの明智勢で充満しており、血眼になって織田信

長の遺骸を捜索する彼らを出し抜くのは非常に困難だったと考えられたため、実際に織田信長の遺骸と二条御

所で自刃した織田信忠の遺骸を発見出来たかどうかは定かではない。その後、織田信長の遺骨が阿弥陀寺

存在するという話を耳にした羽柴秀吉が、再三に渡って遺骨を引き渡すよう申し入れて来たが、遺骨を利用して

後継者争いで有利な立場に立とうとする羽柴秀吉の思惑を嫌った清玉上人は、主家を乗っ取ることは「人の道

にあらず」と、この申し出を一貫して拒絶し続けたという。遺骨を手に入れることで追悼供養の主導権を握り、跡

目を継ぐに足る者は自分であると天下に知らしめようとした羽柴秀吉の当初の目論みは外れ、結局大徳寺

行った追善供養の際には、遺骨の代わりに織田信長の木像を作って棺に納めるという演出で乗り切ったが、羽

柴秀吉の心中穏やかならざる事は容易に想像できる。その証拠に、天下人となった豊臣秀吉は、寺領の大半を

没収するという処分を下し、さらには1587(天正15)年、都市計画に沿って「寺町」と呼ばれる現在の地に強制的

に移転させるなど、阿弥陀寺に対して牙を剥き続けたという。

こうして阿弥陀寺では、毎年「本能寺の変」の起きた6月2日に「信長忌」として追善供養が行われてきている。普

段は非公開となっている堂内も、この日には特別に公開される。

寺町通今出川にある市の駐車場に車を置いて寺町通を北に向かった。寺町通の名にふさわしく阿弥陀寺まで

のわずかな距離の間にも本満寺や十念寺の甍が続いていた。しばらく歩くと阿弥陀寺の山門が見えてくる。