「信長忌」にお参りしたのである。
方の規模(約900m四方)もの広大な寺域の中に13もの塔頭を持つ大寺院だったと伝えられている。
れて本能寺へと駆けつけた。しかし、時すでに遅く、到着した頃には本能寺は炎上、織田信長も紅蓮の炎の中で
自刃して果てていた。一説によると、この時清玉上人は、明智勢が固める表門を避けて裏の生垣より境内に潜
したといわれている。ただ、寺院内は攻め寄せた13,000名あまりの明智勢で充満しており、血眼になって織田信
長の遺骸を捜索する彼らを出し抜くのは非常に困難だったと考えられたため、実際に織田信長の遺骸と二条御
存在するという話を耳にした羽柴秀吉が、再三に渡って遺骨を引き渡すよう申し入れて来たが、遺骨を利用して
後継者争いで有利な立場に立とうとする羽柴秀吉の思惑を嫌った清玉上人は、主家を乗っ取ることは「人の道
にあらず」と、この申し出を一貫して拒絶し続けたという。遺骨を手に入れることで追悼供養の主導権を握り、跡
行った追善供養の際には、遺骨の代わりに織田信長の木像を作って棺に納めるという演出で乗り切ったが、羽
柴秀吉の心中穏やかならざる事は容易に想像できる。その証拠に、天下人となった豊臣秀吉は、寺領の大半を
没収するという処分を下し、さらには1587(天正15)年、都市計画に沿って「寺町」と呼ばれる現在の地に強制的
に移転させるなど、阿弥陀寺に対して牙を剥き続けたという。
段は非公開となっている堂内も、この日には特別に公開される。