京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

京都山科義士まつりその1

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京都の東郊、東山の東側一帯は山科という地名であり、行政的には京都市山科区という。山科周辺は古くから

交通が盛んであり、東山を越える日ノ岡峠、大津宿へ抜ける逢坂関東海道の要所として知られていた。山科

東海道の街道町であり江戸時代には特に栄えた。また、逢坂から南へ抜ける奈良街道奈良に都があった頃

北陸道)、東山を日ノ岡の南で越える渋谷街道(東国と六波羅探題を結んだ)や滑石街道大岩街道など数多

くの街道があった。山科は古代より政権との結びつきが深く、669年には中臣鎌足によって精舎(山階寺)が作ら

れ、7世紀末には天智天皇陵などが作られた。平安京比叡山延暦寺の創建後、安祥寺848年)・毘沙門堂

勧修寺900年)・曼荼羅寺(後の随心院991年)など多くの寺院が作られ、区外の山科川下流の醍醐・笠取

山の山上・山麓には醍醐寺874年)が創建されている。江戸時代は山科や四宮、そして髭茶屋追分(現在の大

津市追分)までが東海道(三条通の開通に伴い、今は旧街道・旧三条通り等と呼ばれる)の街道筋として一続き

の町となり、飛脚参勤交代をはじめ多くの人々が行き交った。髭茶屋追分からは京都を通らず大津宿伏見

宿大坂を直接つなぐ伏見街道大津街道)が山科盆地を南へ走っていた。また大石良雄(内蔵助)は山科区

西の端にあたる西野山に住み、仇討ちまでの間、夜毎東山を越えて祇園に通いながら世間の目を欺いていた。

その大石内蔵助に因んで毎年12月14日の赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日に「山科義士まつり」が昭和49年か

ら行われている。大石内蔵助以下四十七士が山科北の山裾にある毘沙門堂から大石内蔵助が住んでいた場

に祀られた大石神社まで市内を練り歩く。わたしが2005年に初めてこのまつりを見にきたときは行列について

JR山科の駅前から大石神社まで行ったから、今回は出発地の毘沙門堂からJR山科の駅前までついてゆくこと

にした。10年ぶりの山科義士まつりである。JR山科駅で電車を降りて駅前から京津電車(浜大津京都三条間)

の線路に沿って東に向かい途中で左に折れ、JRのガードをくぐり、山科疎水(琵琶湖から京都岡崎までの運河)

渡って毘沙門堂までの10分ほどの徒歩である。山科疎水は春は桜の名所で賑わう。普段は豊かな水流が流れ

ているが、この日は上流のダムの水門が閉じられているのか水はほとんど流れていなかった。この疎水に観光

船を浮かべて浜大津から京都まで定期的に運行するという観光事業が進められている。すでに試験運行も今春

行われており、来春には運行が始まるのではなかろうか。この橋の近くにはかつてわたしが通っていた京都の

小学校の郊外学舎があり、校外授業でよく来た思い出がある。芋ほりをしたり疎水で水泳をしたり、懐かしい昔

の思い出が甦る場所である。夏休みになると友達と誘い合ってこの疎水で一日楽しんだものである。親から貰っ

た30円で京都山科間のJR(当時国鉄)の子供料金の往復乗車賃20円と昼食のアンパン10円で一日遊べるので

ある。そんな思い出に浸りながら昔は水田と畑が続いていた道を毘沙門堂に向かったのであった。