交通が盛んであり、東山を越える日ノ岡峠、大津宿へ抜ける逢坂関が東海道の要所として知られていた。山科
は東海道の街道町であり江戸時代には特に栄えた。また、逢坂から南へ抜ける奈良街道(奈良に都があった頃
の町となり、飛脚や参勤交代をはじめ多くの人々が行き交った。髭茶屋追分からは京都を通らず大津宿と伏見
西の端にあたる西野山に住み、仇討ちまでの間、夜毎東山を越えて祇園に通いながら世間の目を欺いていた。
所に祀られた大石神社まで市内を練り歩く。わたしが2005年に初めてこのまつりを見にきたときは行列について
JR山科の駅前から大石神社まで行ったから、今回は出発地の毘沙門堂からJR山科の駅前までついてゆくこと
の線路に沿って東に向かい途中で左に折れ、JRのガードをくぐり、山科疎水(琵琶湖から京都岡崎までの運河)
渡って毘沙門堂までの10分ほどの徒歩である。山科疎水は春は桜の名所で賑わう。普段は豊かな水流が流れ
ているが、この日は上流のダムの水門が閉じられているのか水はほとんど流れていなかった。この疎水に観光
船を浮かべて浜大津から京都まで定期的に運行するという観光事業が進められている。すでに試験運行も今春
行われており、来春には運行が始まるのではなかろうか。この橋の近くにはかつてわたしが通っていた京都の
小学校の郊外学舎があり、校外授業でよく来た思い出がある。芋ほりをしたり疎水で水泳をしたり、懐かしい昔
の思い出が甦る場所である。夏休みになると友達と誘い合ってこの疎水で一日楽しんだものである。親から貰っ
た30円で京都山科間のJR(当時国鉄)の子供料金の往復乗車賃20円と昼食のアンパン10円で一日遊べるので
ある。そんな思い出に浸りながら昔は水田と畑が続いていた道を毘沙門堂に向かったのであった。