京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

津和野ー乙女峠マリヤ聖堂(キリシタン殉教史跡)

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午後3時ごろようやく津和野の町に入った。まず妻がぜひ行ってみたいという乙女峠マリア聖堂に向かった。カー

ナビでようよう探し当て、駐車場から急な山道を登る。秋の陽が西に傾き、山影の陰影が濃くなる道を登りきると

マリア聖堂の尖塔が視野に飛び込んできた。

乙女峠マリア聖堂は島根県鹿足郡津和野町にあるキリスト教の聖堂。津和野駅西側の山中に位置しており、名

称は江戸末期から明治初頭の隠れキリシタンにまつわる歴史に由来する。1867年(慶応3年)、長崎のフランス

人神父ベルナール・プティジャンによる信徒発見をきっかけに、新政府による大規模な隠れキリシタン弾圧事件

が起こる(浦上四番崩れ)。長崎浦上村の3,392名は福山などに配流となり、1968年明治元年)に浦上村の

信徒たちを率いていた28名が、翌年にはその家族など125名、合わせて153名がこの地に送られた。

信徒らは長崎から安芸国廿日市の津和野藩御船屋敷まで船で運ばれた後、津和野街道を90キロメートル程徒

歩で移動して光琳寺に到着、本堂に幽閉された。当初は津和野藩により改宗の説諭が行なわれたが棄教する

者はなく、方針を改めた津和野藩により信徒に対して酷い拷問が行われて、1870年(明治3年)までに36名の

教者を出した。その際に聖母マリアが現れ、信者に語りかけ励ましたという伝説があり、日本におけるカトリック

教会広島司教区司教聖母の出現として認可している(カトリック教会としては未承認)。流罪となっていた

信徒たちは1873年明治6年)の禁教解除により釈放され、浦上へと帰された。広島司教区は1939年昭和14年

に田畑などになっていた光琳寺の跡地を購入し、1948年(昭和23年)に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」

聖堂として乙女峠記念堂が建立されたが、乙女峠の呼称は同年にこの歴史を綴った永井隆による『乙女峠』が

刊行されたことにも由来する。聖堂は聖母マリアに献堂されたことからのちに「マリア聖堂」と呼ばれるようになっ

た。聖堂のステンドグラスには当時の悲劇の様子が描かれている。

毎年5月3日には殉教者を偲ぶ「乙女峠祭」が行われ、町内の幼稚園児やキリスト教関係者など県内外から約20

00名が訪れてのミサが行われる。

西欧の文明を取り入れて近代国家としてスタートした明治政府、明治維新直後の混乱の中で政策とはいえ、こ

キリシタン弾圧事件や廃仏稀釈(仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を

廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本にお

いては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す)等々明治

政府の勧めた政策の中には理解できないものが多い。