京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

秋の鯖街道(若狭街道)をゆく 朽木谷その2

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織田信長が近江浅井氏の寝返りを知ったとき、直ちに京への撤退を開始した。北国街道を北からは朝倉軍が攻
 
寄せ、南からは浅井軍が迫る。このとき京へ戻るには琵琶湖の西岸、敦賀から丹後街道を西に向かい、三方五
 
湖の側を過ぎて三方を抜けて倉見峠を越えて、若狭街道の上中に出て道を左にとり、熊川宿を抜けて保坂から
 
朽木谷に入り、大原を抜けて京に入るしかない。信長は即断し、真っ先に単騎で駆け出したという。この織田信
 
長の生涯最大の危機的状況となったとき、4人の武将が信長の危急を救ったという。まず撤退に対し殿(しんが
 
り)を買って出たのが木下藤吉郎であった。殿軍は防御しながら撤退するという戦い方をしなければならず、損害
 
が大きく、場合によっては全滅することもある。その殿を藤吉郎は買って出たのであった。いわば藤吉郎は大き
 
な賭けに出たのである。この行為で藤吉郎は以後絶大な信頼を信長から得ることとなる。殿軍は厳しい戦いを強
 
いられることを知っている他の武将はそそくさと陣をたたんで信長を追ってゆく。その中で徳川家康だけは木下
 
藤吉郎に加担して殿軍に合流した。徳川軍は信長の同盟軍であり家臣ではない。さっさと逃げてもいいのであ
 
る。だが律儀な家康はそうしなかった。これで家康は信長の信頼を一段と得ることとなり、木下藤吉郎の信頼を
 
も得る結果となった。次に織田軍の陣中にいた松永弾正久秀である。朽木谷を無事通過するには朽木谷の領主
 
朽木信濃守元綱を味方につけなければならない。その説得役を松永弾正久秀は買って出たのである。久秀は
 
降伏して信長の家来になったから何とかして役に立って信長の信頼を得たいと日ごろから考えていたから絶好
 
の売り込みのチャンスとなったのである。この説得の成功で久秀信長の信頼を得る(もっとも久秀は天正5年(157
 
7)信長を裏切って大和信貴山城に立てこもり自刃)、そして久秀の説得に従い、無事朽木谷を通した朽木信濃
 
元綱も信長の信頼を得て、織田信長豊臣秀吉に仕え、領土を保全し大名として家名を保った。関ヶ原の戦い
 
おいては当初西軍についたが東軍に内通し、そのため戸幕府成立後も大名として存続を許され、家名は明治
 
維新まで存続したのであった。