京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

二月堂お水取り「修二会」お松明その1

     

夜の帳が下りるに従い足元から夜の冷えが昇ってくる。お堂の雪洞に灯が入り、空が次第に暗くなってきた・・・

修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。
東大寺の長い歴史にあって、二度までもその大伽藍の大半が失われてしまった時ですら、修二会だけは「不退の行法」として、1250有余年もの間一度も絶えることなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきたのである。この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。行中の3月12日深夜(13日の深夜1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった。

二月堂へ

      

      

鹿の姿も見受ける二月堂の参道をゆく。参道の両側には修二会の人混みに対処するため竹矢来が続く。広場に出ると驚いた。まだ四時過ぎで大松明の点火時間まで三時間もあるのにこの行列である。そそくさと最後尾に付く。毎年来慣れている人たちは折り畳みの小さな椅子や尻に敷くシ-ト、段ボールの切れ端等用意してきている。五時過ぎようやく列が動き、お堂の下の階段状の芝生に案内された。まだ二時間もある。

東大寺二月堂は奈良県奈良市東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより創建時の建物の大部分を失っている。二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれたが、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。修二会は大仏開眼供養と同年の天平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされ、二月堂の創建もこの時とされる。

大仏殿から鐘楼へ

      

      

説明するまでもないあまりにも有名な大仏殿・・・大仏殿の前を右に折れ、二月堂へ向かう。途中巨大な鐘楼の前に出る。この鐘楼、重さ約26トンもの天平時代の梵鐘(国宝)を吊る為に建造されたもので、現在の鐘楼は鎌倉時代の承元年間(1207年~1210年)に再建された二代目。鐘楼に吊るされた梵鐘は、総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、金具を入れると約200kgもある。 大きな釣鐘であるところから古来東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいる。