から少し東側にあり標高314mの山である。麓の駐車場から石段に続く坂道があるが、横に併設された有料のエ
スカレーターに乗り、最後の石段を登りきると、広場の奥に白虎隊の墓地があった。
守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にする。その時、隊士の間では城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み一
人でも多く道連れにするか、激論が交わされた。結果、彼らが選んだのは自刃。捕らえられて生き恥をさらすより
潔く死を選ぶ、という結論だった。ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる、凄惨たる光景―。新政府は
彼らの遺骸に手をつける事を許さなかったが、3ヶ月後、近くの村人・吉田伊惣治らによって付近の妙国寺に密
かに仮埋葬された。改葬が許されたのは明治2年。その時作られた墓は拡張され、大正15年に今の形となったと
いう。墓前で心静かに合掌、周囲には人影なく、墓地は静寂に包まれていた。