京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

にしん街道小平町・旧花田屋番屋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11
                                    以上3枚の写真はHPから転載

冬季、シベリアから激しい北風が吹き寄せるにしん街道は風の街道でもあり、その風力を利用した大規模な風

力発電が盛んであり、北に進むにつれ、風力発電の大きな風車が視界に飛び込んでくるようになる。

にしん道沿いにある小平町(おびらちょう)は留萌郡に属する。町名の語源はアイヌ語の「オピラシペツ」o-pira-u

s-pet(河口に・崖・ある・川)で、町の中央を流れる小平蘂川の名に由来する。小平蘂川上中流域は白亜紀の化

石の産地である。かつては留萌炭田を抱える産炭地であって、1947年(昭和22年)頃にはその最盛期を迎えた。

鉄路も留萌本線留萌駅から羽幌線、天塩炭礦鉄道、達布森林鉄道などが延びていて昭和40年代までは活況を

呈していたが、閉山後に衰退。1956年(昭和31年)に鬼鹿村を併合した時の人口は3万人近かったが、現在は    

4,000人を下回るまでに減少している。にしん街道にある「道の駅おびら鰊番屋」は敷地内に国指定の重要文化

財「旧花田家番屋」(鰊番屋)があり、道の駅の施設自体もそれに合わせて古い木造の建築物風に建てられてい

る。「旧花田家番屋」は1905年頃に建築された鰊御殿で、地元の網元であった花田家によって建てられた二階

建ての家屋である。花田家の一族と漁師たちのほか、船大工、鍛冶職人、屋根職人などが居住しており、200人

ほどが住むことができた。現在、北海道内に残っている番屋としては最も規模が大きいものである。1971年に重

文化財に指定され、現在は一般公開されている。この日は休館日であり残念ながら内部が見られなかったの

で、HPから内部写真を転載した。

海岸沿いの公園に「三船遭難慰霊之碑」と刻まれた碑が建っていた。第二次世界大戦末期(日本の降伏文書へ

の調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上樺太

らの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍による

ものと見られる国籍不明の潜水艦からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となっ

た事件の慰霊碑である。また公園に建つ銅像蝦夷地を探査し、北海道という名前の名付け親である、江戸時

代末期(幕末)から明治にかけての探検家松浦武四郎銅像である。